わきたさん、どうもです。
吉原の町割は基本的に日本堤に合わせたものでしょうが、「北枕」問題との因果関係は、ん〜どうでしょう。
一般大衆が「北枕」を気にする様になったのは、いつの時代から何でしょうかね、江戸の昔、九尺二間の長屋住いで「北枕」を気にしてた人が、どれほどいたのかも知りたいですね。
iGaさん、こんばんは。ずいぶん前のエントリーではありますが、コメントさせてください。最近読んだ本のなかに吉原の話しが出てきました。そのさい、大門の向きではなく、敷地の「傾き」に関する説明が出ていました。狭い敷地にびっちり並ぶどの妓楼の、どの部屋であっても「北枕」にならないようにするための配慮だとのことでした。でも、この「北枕」問題と、大門の向きは、また別の問題ですよね〜。
Posted by わきた・けんいち at October 13, 2007 12:14 AM吉原のモデルとなった京都島原をみるとここでは大門は東を向いていますね。大門へのアプローチはシケインというかクランク状になって外から見通せない構造は吉原と同じですね。公儀はさし置いても、世間の目をはばかり通う悪所ということでしょうか。
こうやって見ると、お城の鬼門におかれた吉原の
その大門も鬼門を向いてるんですね
遊女遊びは公儀の目をはばかりながらってことだったのでしょうか
それは力不足ですが、(^_^;)
「中世の非人と遊女」にもありましたが、非人(河原者)→庭師→お庭番(隠密)なんて進化系もありますからね。
江戸前で海上のお庭番的な役目を担っていたと考えられないこともないですね。
そう言われてみると、佃漁師にもう一痛の御免状が出ていた…なんてことが無いとは限りませんね〜。操船はお手のもの。いざとなれば、隠密的性格の水軍に変身して…とか…。この際、妄想力を肥大させて、小説をお書きになりません?(^^;
Posted by masa at January 4, 2007 03:12 PM