科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)
表紙カバー裏の紹介文に『科学―誰もが知る言葉だが、それが何かを明確に答えられる人は少ない。しばしば「自然の猛威の前で人間は無力だ」という。これは油断への訓誡としては正しい。しかし自然の猛威から生命を守ることは可能だし、それができるのは科学や技術しかない。また「発展しすぎた科学が環境を破壊し、人間は真の幸せを見失った」ともいう。だが環境破壊の原因は科学でなく経済である。俗説や占い、オカルトなど非科学が横行し、理数離れが進む中、もはや科学は好き嫌いでは語れない。個人レベルの「身を守る力」としての科学的な知識や考え方と何か―。』とある様に、前書きの最後は『...「これで科学を好きになってほしい」「少しでも興味を持ってもらえば嬉しい」ということではない。「科学から目を背けることはことは、貴方自身にとって不利益ですよ」そして「そういう人が多いことが、社会にとっても危険だ」ということである。』と結んでいる。
つまりはサバイバル、生き残るため為には科学的思考が不可欠だと云うこと。多くの客観的情報に基づき自分自身で考え判断することである。
先の厚生労働委員会での国会議員による参考人質疑を聴いていると、経済性を優先した確率的な「しきい値」を設定し、信仰としての安全安心を求め、自ら思考停止状態に陥ろうとしている...非科学的な感情としか思えないのである...。
-------------------------------------------------------------------------
内容
第1章 何故科学から逃げようとするのか
いつから避けるようになったのか
向いてないと思い込む
文系と理系
理系科目は何が違うのか
覚えるものと理解するもの
名称を覚えることの弊害
思い込みによる思考停止
津波という名称はいかがなものか
言葉だけの認識の危険性
自分も言葉だけで評価してしまう
わからないのには理由がある
教育の責任
社会の集団の中でも
数字をイメージできるか
感想ばかりが溢れている
個人の感想ではなく客観的情報を
客観性が社会を落ち着かせる
科学の方法
本章のまとめ
第2章 科学というのはどういう方法か
科学と非科学
非科学的な習慣
幽霊を信じますか?
見れば信じられる?
科学とは
実験するのが科学?
実験が科学ではない
数値によるコミュニケーション
数字による認識
科学的予測が支えるもの
予測と予言
ある技術者の返答
科学は人間の幸せのためにある
定量的な把握
数字による把握とは
それでも耳を塞いでしまう
知識量に価値があるのではない
理系と文系の認識
お互いを認め合うこと
物語だけが読み物ではない
本章のまとめ
第3章 科学的であるにはどうすれば良いのか
「割り切り」という単純化
科学は常に安全を求める
厳密であるために疑う
割り切っているという自覚が必要
面倒なことに慣れる
問題を見つけることの重要性
科学的に答えてみよう
科学の歴史は浅い
案外誰も知らない科学的理由
問い続けると根源的な疑問に至る
言葉の信仰による支配
科学における理論とは
実験結果は必ずしも真実ではない
ある小さな研究の成果
秘伝は科学ではない
科学の慎重さ
科学の公平さ
本章のまとめ
第4章 科学とともにあるという認識の大切さ
ごく普通に接すれば良い
数字にもう少し目を留めてみよう
数字による評価
数字は当てにならないものか?
はっきりと示してほしい?
少し勉強すれば...
言葉を鵜呑みしない
大まかでも良いから把握する
技術者としての一言
科学者は非情なのではない
歩調を合わせて信じてしまう
科学的に否定されていない?
少し科学的に考えてみれば
若者の方が危ない
微笑ましいレベルの非科学
健康に関しては自分が基準
子供に対しての注意点
好奇心を潰さないように
自由さが科学を育む
人間の幸せのために
あとがき
-------------------------------------------------------------------------
Fumanchu先生がコメントでおっしゃっている「主体」や「創造主」は、『法と建築家の主体性(1969)』のなかのエリッヒ・フロムの引用の箇所に対応していますね。前川國男はそれに続く箇所で、「自己の責任」ということも強調しています。これはもちろん近年の新自由主義者たちが言うような意味では全然なく、ハンス・ヨナスの「責任の原理」に近い考えです。人類が二十世紀に人類自身と自然環境を完全に破壊・無化できる能力をもつにいたって以来、この能力はとめどなく増大し続けています。ですからすべての「技術的に可能なこと」を推進しても差支えがないと考えられていた時代はとっくに終わっています。この場合、その適否を判断するのは問題の研究に携わっている科学者たち自身でも、利害関心をもつ産業部門の業界団体でも、所管する中央行政機関でもなく、独立した第三者機関であるべきだし、さらに広く考えれば、ハーバーマス的意味での公共圏における、すべての利害当事者、すべての市民が参加する開かれた熟議の場であるべきです。いわゆる「精神なき専門領域人たち」の専門知に決定を委ねてはならないのです。「道具的理性」という言葉は、日本でも1970年前後の異議申し立ての時代に流行したが、その後急速に忘れられてしまった言葉です。これはウェーバーの「目的合理性」の概念を批判的に継承しより急進化させたもの、ということもできます。ところで、アドルノとホルクハイマーも「客観的理性」という用語を別の意味で使っていますが、これは「自然科学の観点に基づく」というような限定的なものではなく、(宗教や形而上学を含む)かつての理性を指していました。しかし近代以降の科学は専門分化のなかで狭い領域内の固有の価値観や世界観にだけ合致しているものになってしまっているのに、自分たちの価値観や世界観の限界を認めたがらない科学者が多いことが問題だと思います。それから「精神なき」ということについても、前川國男が建築家について繰り返していた批判の多くは科学者にもあてはまるのではないでしょうか。
Fumanchu先生のコメントへの反応のつもりで書き始めたのですが、長くなってしまいました。お詫びします。
「神に見放された。」というときには主体は「創造主」なのですが、「バチが当たった。」という時の主体は「自分」なのであります。
Posted by: Fumanchu at August 27, 2011 03:15 PMあるいはそうかも知れません。しかし、私が懸念するのは「科学の優位性」への過信や一元的に「科学的に」しか思考できなくなってしまうことの危険です。
たとえばテーラーシステムのようなものが「科学的管理法」とみなされていたことは、「客観的理性」や科学が、人間による自然の−そして人間による人間の−支配と搾取を合理化するのに役立ってもいるということを示しています。これに関連して前川國男は、近代建築が人間的現実から遠ざかるということが起こるのは、資本や国家だけでなく科学や技術そのもののなかにそういう要素が内在しているからではないかと問う文脈のなかで、「科学的に計量され、細分され、単純化された労働の繰り返し作業が必ずしも人間的であるとはいえない」と書き、さらに別のところでは「人間の抽象化と数量化は産業社会におけるいわゆる人間疎外の元凶であります」と書いています。
前川國男はまた、「人間の精神は人間の精神が作り出したもの(しでかしたこと)を乗り越えることができるであろうか?(L'esprit humain pourra-t-il surmonter ce que l'esprit humain a fait ?)というポール・ヴァレリーの問いを重要視していました。核エネルギーの利用の問題に限らず、たとえば遺伝子工学、生命科学などの領域においても、開かれた公共空間における広範な民主的議論が、取り返しのつかないカタストロフに対する歯止めとなりうるためには、討議の場に参加するべき市民たちが、科学も人間の精神の諸産物のひとつに過ぎないということを忘れず、とくに倫理的配慮、ユマニスト的価値観、過去と未来の諸世代への歴史的責任、あるいは芸術、文学、フォークロア、民衆の知恵、生活世界、対抗文化等々に払われるべき注意を、優先できることが求められます。宗教についていえば、ベネディクト十六世も科学技術への過信を戒め、イタリアで六月に実施された国民投票の直前に「人間を支配する技術は人間から人間性を奪う(La tecnica che domina l'uomo, lo priva della sua umanità)」と説きながら脱原発の姿勢を鮮明にしていました。
このような意味において私は、ペシミスト過ぎるかも知れないが、一見無害にみえる「科学的に思考することのすすめ」のようなもののなかにさえもある種の陥穽を見出さざるをえないのです。
再三の長文の投稿をおわびします。科学と人間というような主題にこれほど過剰に反応することは三月11日以前ならかんがえられなかったことであるという事情を考慮され、お許しくださるようお願いします。
Tosiさん、コメント有り難うございます。
昨今のメディアの劣化状況を見るに付け、自然科学の観点に基づく客観的理性が求められていることではないでしょうか。物語の必要性もありますが、自然科学的世界観を持つことによって、逆に神話や物語の寓意性への理解も深まるような気もします。
Posted by: iGa at August 27, 2011 09:57 AM隈健吾さんか誰かが「1755年のリスボン大地震で「神に見放された。」と感じた人々が近代化学を始めた。」みたいな言い方をしていましたが、さしずめ今回「東北大震災で近代化学がインチキだと気づいた人々」は信仰でしょうか。明治の国家神道以前の、日本古来の原始神道は、まあエコロジーみたいなものだと思います。
Posted by: Fumanchu at August 20, 2011 10:23 PMおそらくこの本は多くの重要な論点を提供しているのでしょうし、著者が言いたいことを理解したいとは思うのですが、私はそのためにはあまりにもペシミスト過ぎると感じます。未読の本について予断をもとに拒否反応を示したいわけではなく、あくまで一般論として申したいのですが、科学や技術、そしてそれらを生み出した「啓蒙」や「理性」が、人間の幸せのためにあり、私たちをより人間的な社会に導くはずだったのに、逆にそれら自体が新たな神話や野蛮に結局は転化してしまうという例は、二十世紀を通して(そして今世紀になってからも)枚挙にいとまがなく、少数の例外的な逸脱の例として片付けることは難しいほどです。科学者たちについても、たとえば原子力ムラに属するひとたちと、故高木仁三郎氏から小出裕章氏まで、私たちが信頼しているひとたちのうち、少数の例外はどちらかを考えると、残念ながら後者のほうだといわざるをえません。このことが意味するのは、科学や技術が資本や国家から独立した中立的なものでありうるような条件を実現することは、日本より民主的な諸国においてさえも容易ではなかったしまた今後も容易ではないであろうし、日本では実現したことはかつて一度もなかったし、また今後も実現しそうにないように思われさえする、ということです。このような意味において、たとえばルイス・マンフォード、フランクフルト学派第一世代、あるいは前川國男による、近代の科学技術あるいは道具的理性の、根底からの批判的な問い直しの試みは、その重要性を今日でもまったく失っていないと私は考えます。それから、アンゲラ・メルケルは物理学者であると同時に、ザルツブルク音楽祭にいつも現れたり、文人政治家のような一面や、人間による自然の完全な支配が可能だという考えは傲慢かもしれないと気づかせてくれる(よい意味での)ロマン派的感性も、ある程度はもっているはずです。このようなことも無視できないのではないでしょうか。
見当違いかもしれないコメントをあえて投稿いたしましたことをおわびします。