December 28, 2008

放課後...みたいで...

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二人並んで何かに心を奪われ見入っている様子は、まるで小学生男子が放課後、家まで真直ぐ帰らず道草を食っているみたいで、妙に微笑ましいものがありますです。因みに黄色い日除けのテントは最近替えたようでストリートビューでは青でした。(東向島3丁目辺りで、於:JEDI @玉ノ井)

Posted by S.Igarashi at December 28, 2008 09:43 AM
コメント

masaさん、わきたさん、どうもです。

暮れは楽しい時間を共有でき、ありがとうございます。翌日、さっそく本屋で濹東奇譚を求め、読了したところです。低湿地帯で生まれ育った身としては空間体験やら、時代の変遷やら、なんやらと、別な面で色々と思う処が多かったです。

日が変わりましたので、今年はあれやこれ等も実行にうつさねば...と思う次第で、今年も宜しくお願いします。尚、5日まで服喪に付き正月の挨拶は控えさせていただきます。

Posted by: iGa at January 1, 2009 12:36 AM

私も関係ないコメントです。
残りわずか、今年もいろいろお世話になりました。
来年も、楽しい「徘徊」「アースダイビング」ができますように!!

Posted by: わきた・けんいち at December 31, 2008 11:58 PM

関係ないコメントです。今年もいろんな情報をありがとうございました。来年も見捨てず…宜しくお願いいたします!

Posted by: masa at December 31, 2008 11:54 PM

kawaさん、どうもです。

答えになったのか解りませんが、建築様式の断絶も含めて戦争が深い影を落としていることは間違いないでしょうね。荷風が濹東綺譚を書いた昭和11年(1936)は2.26事件が起きた年、東京朝日新聞で濹東綺譚の連載が始まったのが昭和12年(1937)で盧溝橋事件が起きた年、渡辺 仁による東京帝室博物館が竣工、第一生命本館と原邸(現・原美術館)はその翌年の昭和13年(1938)に竣工、この昭和13年に国家総動員法...
それから、戦後の昭和25年(1950)の建築基準法の公布までは、建築も暗黒時代だったのでしょうね。元祖9坪住宅の増沢邸が1952年...で...ようやくですね...

Posted by: iGa at December 31, 2008 02:22 AM

iGa様Tam様
少しずうずうしいとも思いましたが、訊いてみて良かった。有り難うございました。

Posted by: kawa at December 30, 2008 12:05 PM

玉井さん、どうもです。

大正の初めというと既に90年は越え、震災にも戦火にも耐えたのですから、それは誇りですね。そういえば軒瓦に家紋も入ってました。

Posted by: iGa at December 30, 2008 07:52 AM

もうしおくれました。
わたしは、たったいまここを開いたところです。
この店の前、左半分には家の模型がたくさんおいてあって、なかのひとつには、まといやはしごが丁寧につくっておいてあったからでしょう、この家は鳶職の家だろうかとmasaさんにうかがったのでした。
しかし、右半分は腰壁に白いタイルを貼って、いかにも豆腐屋でした。「東京都豆腐商組合員之証」と書かれたホーローの札の写真を撮ろうと構えたら、中からおばあちゃんが出ていらしたので、「ここは豆腐屋さんですか?向こう半分は別のお店ですか」とたずねると
「両方ともウチの豆腐屋の店ですよ。大正のはじめに建てました」と、やや誇らしげにいうのでした。

Posted by: 玉井一匡 at December 30, 2008 02:05 AM

kawaさん、どーもです。
そういえば、アンブレラプロジェクトも隊長と一緒でした。

出し桁造りの流行りは知りませんが、都内の場合は大震災でリセットされて、空襲に遇わずに焼け残ったのが、現存しているとすると大正から昭和初期なんでしょうね。台東区の旧・竹町(現・台東三丁目)にあった高校時代の恩師の実家が焼け残ってましたが、それが昭和5年に普請されたと聞いてます。戦時中から終戦直後は、それどころじゃないでしょうね。

Posted by: iGa at December 29, 2008 10:03 PM

テントを黄色にしたり、青にしたりまるでアンブレラプロジェクトみたいですね。
街道沿いの商家なんかに、今でも少し残っている出し桁造りですが、古そうに見えますが、意外に新しく、大正から昭和初期のはやりと聞いた事があります。真為を計りかねていました。どなたかご存知だったら教えて下さい。

Posted by: kawa at December 29, 2008 05:58 PM

fuRuさんどうもです。
銭湯、焼き芋屋、豆腐屋と、昔は燃料に薪(建築廃材)を使う商いと云うことでも共通してましたが、基本は忍耐強いと云われてる県民性でしょうか...

Posted by: iGa at December 29, 2008 11:53 AM

横から失礼します。
>豆腐屋に新潟県人が多い

たしかに、私の叔父も豆腐屋さんをやっていましたし
工務店にいた頃のお客さんにも
新潟出身で豆腐屋さんのご夫婦がいましたね。
どちらも、もうお店をたたんでしまいましたけれど。

Posted by: fuRu at December 29, 2008 11:29 AM

東京の銭湯と焼き芋屋には新潟県人が多い........と聞いていましたが、豆腐屋もそうでしたか、何となく分かりますね。因み私は小学校の同級生OとMの二人の実家が豆腐屋でした。

Posted by: iGa at December 29, 2008 09:10 AM

豆腐屋といえば、新潟県人が多い........と聞いていますが、下町ではどうなんだろ。といえば.......ランドセルの学童の一人は新潟でしたですね。

Posted by: AKi at December 29, 2008 08:44 AM

どうもです。
この家はしがし(東)を向きに建っていて、朝の早い豆腐屋にとってはお誂向きですね。裏から見ると土管を繋いで造った煙突もありました。
想像するに、まだ商いをしていた頃は、店先に縁台かなんか出してあったりして、近所の人のちょっとした溜まり場かなんかになっていたのでは...とそんな人を寄せ付ける雰囲気はあるかも...昔の子供も放課後、縁台にカバンを放り出して、横丁で遊んでいるような...

Posted by: iGa at December 29, 2008 02:27 AM

こちらは元豆腐屋さんなのに、見た目から鳶職さん…と信じ込んでいました(どこかでそう聞いたような気も…)。ここを通りかかったときに、玉井さんに「こちら鳶さん?」と聞かれ、「はいそうです」なんて自信をもってお答えしてしちゃったりしちゃいましたが、大間違いでした(^^;

Posted by: masa at December 29, 2008 12:59 AM

あっ、ほんとに放課後みたいだ…!!

Posted by: わきた・けんいち at December 29, 2008 12:29 AM