August 07, 2007

神は妄想である・宗教との決別

神は妄想である・宗教との決別早川書房
リチャード・ドーキンス (著), 垂水 雄二 (翻訳)
利己的な遺伝子の著者として知られている動物行動学者・ドーキンスによる最新作である。週刊文春の立花隆による「私の読書日記」で本書の存在を知ったのであるが、その読書日記を改めて読むと、宇宙からの帰還の著者らしく、第一章「すこぶる宗教的な不信心者」からアインシュタインやカール・セーガンらの言葉を引用し、ドーキンスは彼らと同様に理神論者ないしは汎神論者と見做しているのだが、肝心の第二章以降の内容についての言及はなく、『神と自然と人間について、いろいろなことを考えさせてくれる書。』の一言で締め括られると、物足りないと思うのは私だけではないだろう。まぁ書評ではなく読書日記だから仕方ないか。
本書で語られている神と宗教は、そのルーツを一つにする一神教の三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、回教)の超自然的な人格神であり、仏教や儒教についてではない。むしろ、東亜細亜の宗教については、宗教というよりも倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだと彼は考えているようである。
原理主義者による「進化論をめぐり、コロラド大学教授らに脅迫状」の様な事件が顕在化し「信仰しない自由」を否定する空気感が支配する社会に於いて、ドーキンスは何よりも『学問する自由』を訴えているのではないだろうか。

巷間伝えるところによればアインシュタインは神の存在を信じていたとされ、多くの宗教家や似非宗教家は我田引水の如く信心深いアイコンとしてアインシュタインを利用しようとしている。だが、1940年代にアインシュタインは自らを「すこぶる宗教的な不信心者」と告白し、人格神という観念を否定している。この事により、アインシュタインは当時の有神論者達から多くの非難を浴びることになる。それでもアインシュタインは言う。

『私が信じるのは、存在するものの整然たる調和のなかに自らを現している神であり、人間の運命や所業に関心をもつ神ではない』。
と。
因みにドーキンスは本書に於ける有神論、理神論、汎神論等の用語をこのように定義している。
と云うことで、ドーキンスは理神論、汎神論を除外し、『超自然的な神々』について『妄想である』としている。
そうした定義を踏まえ第二章「神がいるという仮説」に於いて、神の存在についての人間の判断を、存在確率100%から0%までのスペクトラムを設定し、下記の七つのカテゴリーに分類している。
1)強力な有神論者。神は100%の蓋然性(がいぜんせい--確率)で存在する。C.G.ユングの言葉によれば『私は信じているのではなく、知っているのだ。』

2)非常に高い蓋然性だが、100%ではない。事実上の有神論者。『正確に知ることはできないが、私は神を強く信じており、神がそこにいるという想定のもとで日々を暮らしている。』

3)50%より高いが、非常に高くはない。厳密には不可知論者だが、有神論に傾いている。『非常に確率は乏しいのだが、私は神を信じたいと思う。』

4)ちょうど50%。完全な不可知論者。『神の存在と非存在はどちらもまったく同等にありうる。』
5)50%以下だが、それほど低くはない。厳密には不可知論者だが、無神論に傾いている。『神が存在するかどうかはわからないが、私はどちらかといえば懐疑的である。』

6)非常に低い蓋然性だが、ゼロではない。事実上の無神論者。『正確に知ることはできないが、神は非常にありえないことだと考えており、神が存在しないという想定のもとで日々を暮らしている。』

7)強力な無神論者。『私は、ユングが神の存在を"知っている"のと同じほどの確信をもって、神がいないことを知っている。』

ドーキンスは自らを控えめに「カテゴリー6」にあてはめているが、「カテゴリー7」に傾いていることを認めている。
(ここで、ユングがシニカルな文脈で引き合いにだされている。日本では先ほど亡くなった河合隼雄とみすず書房によってユング心理学は認められているが、西欧ではオカルトの類いと見做され、科学的に認知されていないようである。)

1970年代後半にヒットした映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の中でジョン・トラボルタ扮する主人公の兄は神父になることを目指し神学校で学ぶ母親の自慢の息子であるが、あるとき悩みを抱えて里帰りした。そんな兄を慰めるべく、弟はディスコに兄を誘う。兄の悩みは『神の存在が見えない』と云うことであった。映画の中では些細なエピソードであるがイタリア系移民の主人公家族にリアリティを与えていた。このエピソードが記憶に残ったのはマニエリズム美術のレクチャーに通っていたとき、講師がイタリアの大学生は陽気で明るく、端から見ると何も悩みを抱えていないように見えるけれど『私には神が見えない』と信仰上の悩みを抱えた若者も大勢いる。と言っていたのを憶えていたからだろう。

宗教的拘束力の緩い日本で生活する、私のような世俗的人間にとって人格神の有無は文学的寓意の範疇であるが、ダーウィン主義の進化論を否定しようとする進化論裁判創造論を教育の現場に持ち込もうとするブッシュ政権等の向い風に晒されている生物学者にとって避けて通ることの出来ない命題であろう。
第二章以降は有神論者による創造論や「インテリジェント・デザイン」等からの反論を想定しながらダーウィン主義として持論を構築してゆく、それは正にディベートの様である。
更に第8章 『宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心(てきがいしん)を燃やすのか?』の「絶対主義の負の側面」に於いて2006年に起きたアフガンでの事例を示している。(少なくともアフガンで拘束された韓国のプロテスタントが本書を読んでいたら、殺されることもなかったであろう。)
そして、『信仰と人間の命の尊厳』では原理主義者による医師への迫害を追求する。こうした事が19世紀に行われているのではなく、21世紀の米国で行われているのである。

さて、ブッシュ政権下でキリスト教原理主義に傾きつつある合衆国政府であるが、合衆国建国の時点でキリスト教国家として建設された訳ではなく明確に政教分離を打ち出しているのである。独立宣言の起草に携わり、初代大統領ジョージ・ワシントンの元で国務長官、第2代大統領ジョンア・ダムスの元では副大統領、そして第3代大統領として二期務め20年に亘って米国政府の中枢にいたトーマス・ジェファーソン、その人は限りなく無神論者に近い人であったと考えられるようだ。ジェファーソンは甥に宛てた手紙の中で『たとえ結局、神が存在しないという信念をもつことになろうとも、それを実践することで君はくつろぎや喜びを得られるという利点もあるし、そして、君は他者への愛というものに目を向けるようにもなるはずだ』。と述べているのである。

どうやら、地球の存亡に関わる問題はCO2だけではなさそうである。

RichardDawkins.net - The Official Richard Dawkins Website

Posted by S.Igarashi at August 7, 2007 05:15 PM
コメント

そうですね「神国日本」は明治政府のプロパガンダそのものですね。

彼の国の支持率低下の原理主義者が何か考えているようですが、、、怖
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2007/08/post-1.html

Posted by: iGa at August 8, 2007 12:01 PM

「神道はエコロジーの古俗」なのだね
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/dh07/iwa/iwa.html#pagetop

近代の「神国日本」は18世紀ヨーロッパの絶対王政のパクリだ、という点ではサイモン・ピゴット氏--信州大鹿村に住む翻訳家、絵本原作者、仙人--と意気投合してしまった。キリスト教が嫌いで東洋の山奥に住むピゴット氏は、村人が面白がってお宮の氏子総代に祭り上げられたまでは良いが、総代会へ出ると「神道政治連盟」の若者、というのが乗り込んで来て支離滅裂なことを言うので閉口しているとのこと。

Posted by: Fumanchu at August 8, 2007 11:04 AM