April 23, 2004

三菱村

二週間前の下書きをそのままにしていたら、とうとうダイムラー・クライスラーは三菱自動車への支援を打ち切ってしまった。結局、三菱自動車は顧客満足度を一度も真剣に考えた事がなかったとしか思えない。昔あったデボネアという車、あれは三菱グループの重役の為に作った車で、ほとんど手作りで自重は2トンを超え、製造原価は販売価格を遥かに上回るという話を聴いた事がある。そうした因習とかが過去において許されていた会社ではダイムラー・クライスラーに逃げ出されても仕方ないが、日本経済へのダメージは大きい、こうした場合の経営者の自己責任はどうなるのだろうか。

4月8日の東京新聞「特報欄」で三菱ふそうのタイヤ脱落問題 2つの責任について、何故、三菱自動車、三菱ふそう等の三菱グループ内で隠蔽体質があるのか言及している。

三菱グループと云えば60年代後半に東京海上火災が本社ビルを超高層ビルに建て替えようとしたとき、三菱地所をはじめとする三菱グループ企業が超高層ビル建設の反対運動を画策し、皇居前の美観論争までに発展させた。丸の内界隈は三菱村と言われるくらい、三菱グループの企業で構成され、不動産も丸ビルに代表されるように三菱地所の所有物件で占められている。結局、美観論争も丸の内地区での超高層ビル建設を東京海上火災に出し抜かれ、一番になれなかったことにたいする逆恨みか。丸ビルも超高層に建て替えられた今となっては、あの美観論争っていったい何だったのだろう。

Posted by S.Igarashi at April 23, 2004 08:51 PM | トラックバック
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